2013年 06月 03日
生きるということ ・ 家族生活や人間関係の移り変わり
生きるということについてはいつも考えている。
自分との対話という表現があるけど、私は子供のころから自分と話してきたから、それは当たり前のこと。自分の中から出てきた答えにそって生きるのが子供のときからのやりかた。
自分が生きたいように生きてきた。そうすることが可能な星の下に生まれた。
2歳くらいからおじいちゃんとおばあちゃんのうちで暮らした。その前に両親と住んでいた空間や時間の記憶も少しはあるけど、子供から成人するまでの暮らしといえば、おじいちゃんとおばあちゃんとの三人暮らし。
私が物心ついたとき、おじいちゃんは家業である骨接ぎと柔道場のだいたいをパパに任せて、区長とか市会議員とかやっていたから、うちには常に相談する人が来ていた。お客さんにお茶を出すと、ふすまを閉めて、おばあちゃんと一緒に応接間から聞こえてくる会話に耳をそばだてていたことはいい思い出。
大人には色んな悩みがあるんだなぁと、子供心に納得していた。その頃から自分と会話することが身についたんだと思う。
悩みのほとんどは、子供が学校に入れない、就職できない、結婚相手がいないなど、子育てに関すること、嫁姑の関係、夫のアルコールやギャンブルなど家庭内のこと、そしてお金の工面に関することだったと記憶している。
おばあちゃんのところにもよく近所のおばあさんたちがお茶を飲みに来て、よく「こぼして」言った。
戦争を体験したあの時代の人たちは我慢しながら生きるということが普通のことだったんだろうなと思う。
特に女の人はあまり言いたいことも言わずに生きたんだと思う。
おばあちゃんとおじいちゃんを比べると、おじいちゃんの方が幸せそうに生きているように私には見えた。おばあちゃんは我慢して生きている感じが強かった。
おじいちゃんは人からはワンマンと言われるところがあって、息子たちのお嫁さんたちからは嫌がられていた。私にとっては素晴らしいおじいちゃんだったけど、ママやおじさんの奥さんにとってはいやな舅だったことはよく見て聞いてきたから知っている。
あの時代はちょうど転換期だったんじゃないかな。おばあちゃんの頃は女性の大半が家庭に入っていた。ママたちの頃は、働く女性も出てきていて、例えばママはパパと結婚する前から美容師をしていた。おじさんの奥さんは化粧部員だった。
おじいちゃんは時代が変っていくことにすんなり対応できなかったんだと思う。女の人が言いたいことを言うとか、やりたいことをやるとか、男と女の関係性が変っていくことは未知の世界で不安だったのかも。
おじいちゃんとおばあちゃんの関係と、パパとママの関係は明らかに違う。
私は成長期にパパとママと同じ屋根の下で暮らしたことはなかったから、パパたちの家に泊まることとか、パパたちと時を過ごすことは、スウェーデンに来てから始まったこと。
おばあちゃんとおじいちゃんがいなくなってから、日本に行って泊めてもらう家はパパたちの家になった。実家とは言っているけど、よく考えてみると、私には馴染みのなかったパパとママの空間。
パパとママと私との関係が深まったのは、一昨年、初めて三人で旅行した時からかなと思う。だからまだ新しい関係。
パパは一昨年でだいたいの役目はリタイアしたようだけど、ママは今も自分の美容院を続けている。ふたりの趣味はゴルフ。週に一度は必ずゴルフコースに行っているようだ。そのせいか二人とも元気だ。
パパとママの空間にお邪魔して感動したことがある。
それはお互いをひとり立ちさせているところ。これは多分、ママの計らいによるものだと思う。
ママは働いているから、ご飯を炊いたり、食品の買い物をするのは時間が割りと自由になるパパで、洗濯もよくしている。簡単な料理もする。掃除は、何かで当たったという自動掃除機がある。
ママがデザインしたと言う平屋の家は二人にはちょうどいい大きさで、風の通りがいい。太陽エネルギーの家。床はフローリングで、いずれ車椅子の生活になっても対応できるようにということで、玄関にも段差がない構造になっている。
子供たちの世話にはならないで二人で生きられるような家にデザインしたんだとママから聞いた。
おじいちゃんとおばあちゃんの関係と、パパとママの関係をみると、時代の移り変わりがよくわかる。
じゃぁ、自分はどうなんだろう。
私の年代はその気になればどうにでも生きられる年代なのかも。
おじいちゃんたちの時代と比べたら、絶対的に自由な時代だと思う。自由に生きたい人はそれなりに自由に生きられるだろう可能性のある国に生まれた。
私の年代のみんながみんなそうじゃないけれど、お察しの通り、私自身はすごく自由だ。
原子力発電所の爆発で、被爆した土地に行って、自由を奪われた人たちがいることを心のそこから実感した。この時代の日本という国に生きていたって自由とは程遠く、我慢を強いられた毎日を送っている人がいる。その現実を垣間見させてもらって、本当にあれから毎日のように自分には何ができるのだろうかとか、どんな生き方をすべきなんだろうかと色々と考えをめぐらせている。
それで更に私自身が自由に生きさせてもらっていることへの感謝が深まった気がする。知り合う人にもとても恵まれている。今回の日本滞在でも本当に多くの人にお世話になった。どんな形でかはわからないけれど、恩返しができるような生き方をするつもりでいる。
今住んでいる国も、健康でさえあれば、割と自由に暮らせる場所かなと思う。出家として家を出た夫も日本で元気にやっている。夫の親たちや親戚たちとも変わらず交流している。同居人とも仲良く暮らしている。同居人の親や兄弟たちとも交流している。
おじいちゃんたちの時代の人たちにはもしかしたら考えられなかったような暮らし方かもしれない。
自分が選んで、こんな自由な生き方をしているんだと思うけれど、回りの人たちの理解があってこそ可能なんだと思う。
前にもブログに書いたかもしれないけど、私は我慢して生きたおばあちゃんや乳がんで死んだおばちゃんの分まで、精一杯に自分を生きようと思っている。
自分の命を大切にして。余計な添加物や農薬の使われていないおいしいものを感謝していただいて。
ママに言わせれば、パパや私は、「ご自愛系」なんだそうだ。
自分を大切に愛して生きる人たち。
おじいちゃんもそうだったかもな。
ママによれば、このご自愛系の流れを継いでいるのは、弟の長男だそうだ。
ご自愛系はマイペースで自分の世界に浸って生きる。結構、世の中のためにいいようなこともやるんだけれど、結局のところは自己満足であるということらしい。
まぁ、そう言われてしまうと返す言葉はない。特に返す必要も感じない。
地球にはいろんな人が生きている。色々な生き方がある。
真実なんて誰にもわからないし、誰もが目に見える形で証明できる真実はないと思う。
自分にとって確実なことは、今、自分がココニイルコト。
自分を生きていること。
自分と会話していること。ひらめきがあること。
自由に生きさせてくれる家族やこの地球の時間に感謝している。
日本滞在最後にはパパとママと温泉に行った。夕飯の後のカラオケは最高だった。

自分との対話という表現があるけど、私は子供のころから自分と話してきたから、それは当たり前のこと。自分の中から出てきた答えにそって生きるのが子供のときからのやりかた。
自分が生きたいように生きてきた。そうすることが可能な星の下に生まれた。
2歳くらいからおじいちゃんとおばあちゃんのうちで暮らした。その前に両親と住んでいた空間や時間の記憶も少しはあるけど、子供から成人するまでの暮らしといえば、おじいちゃんとおばあちゃんとの三人暮らし。
私が物心ついたとき、おじいちゃんは家業である骨接ぎと柔道場のだいたいをパパに任せて、区長とか市会議員とかやっていたから、うちには常に相談する人が来ていた。お客さんにお茶を出すと、ふすまを閉めて、おばあちゃんと一緒に応接間から聞こえてくる会話に耳をそばだてていたことはいい思い出。
大人には色んな悩みがあるんだなぁと、子供心に納得していた。その頃から自分と会話することが身についたんだと思う。
悩みのほとんどは、子供が学校に入れない、就職できない、結婚相手がいないなど、子育てに関すること、嫁姑の関係、夫のアルコールやギャンブルなど家庭内のこと、そしてお金の工面に関することだったと記憶している。
おばあちゃんのところにもよく近所のおばあさんたちがお茶を飲みに来て、よく「こぼして」言った。
戦争を体験したあの時代の人たちは我慢しながら生きるということが普通のことだったんだろうなと思う。
特に女の人はあまり言いたいことも言わずに生きたんだと思う。
おばあちゃんとおじいちゃんを比べると、おじいちゃんの方が幸せそうに生きているように私には見えた。おばあちゃんは我慢して生きている感じが強かった。
おじいちゃんは人からはワンマンと言われるところがあって、息子たちのお嫁さんたちからは嫌がられていた。私にとっては素晴らしいおじいちゃんだったけど、ママやおじさんの奥さんにとってはいやな舅だったことはよく見て聞いてきたから知っている。
あの時代はちょうど転換期だったんじゃないかな。おばあちゃんの頃は女性の大半が家庭に入っていた。ママたちの頃は、働く女性も出てきていて、例えばママはパパと結婚する前から美容師をしていた。おじさんの奥さんは化粧部員だった。
おじいちゃんは時代が変っていくことにすんなり対応できなかったんだと思う。女の人が言いたいことを言うとか、やりたいことをやるとか、男と女の関係性が変っていくことは未知の世界で不安だったのかも。
おじいちゃんとおばあちゃんの関係と、パパとママの関係は明らかに違う。

私は成長期にパパとママと同じ屋根の下で暮らしたことはなかったから、パパたちの家に泊まることとか、パパたちと時を過ごすことは、スウェーデンに来てから始まったこと。
おばあちゃんとおじいちゃんがいなくなってから、日本に行って泊めてもらう家はパパたちの家になった。実家とは言っているけど、よく考えてみると、私には馴染みのなかったパパとママの空間。
パパとママと私との関係が深まったのは、一昨年、初めて三人で旅行した時からかなと思う。だからまだ新しい関係。
パパは一昨年でだいたいの役目はリタイアしたようだけど、ママは今も自分の美容院を続けている。ふたりの趣味はゴルフ。週に一度は必ずゴルフコースに行っているようだ。そのせいか二人とも元気だ。
パパとママの空間にお邪魔して感動したことがある。
それはお互いをひとり立ちさせているところ。これは多分、ママの計らいによるものだと思う。
ママは働いているから、ご飯を炊いたり、食品の買い物をするのは時間が割りと自由になるパパで、洗濯もよくしている。簡単な料理もする。掃除は、何かで当たったという自動掃除機がある。
ママがデザインしたと言う平屋の家は二人にはちょうどいい大きさで、風の通りがいい。太陽エネルギーの家。床はフローリングで、いずれ車椅子の生活になっても対応できるようにということで、玄関にも段差がない構造になっている。
子供たちの世話にはならないで二人で生きられるような家にデザインしたんだとママから聞いた。
おじいちゃんとおばあちゃんの関係と、パパとママの関係をみると、時代の移り変わりがよくわかる。
じゃぁ、自分はどうなんだろう。
私の年代はその気になればどうにでも生きられる年代なのかも。

おじいちゃんたちの時代と比べたら、絶対的に自由な時代だと思う。自由に生きたい人はそれなりに自由に生きられるだろう可能性のある国に生まれた。
私の年代のみんながみんなそうじゃないけれど、お察しの通り、私自身はすごく自由だ。
原子力発電所の爆発で、被爆した土地に行って、自由を奪われた人たちがいることを心のそこから実感した。この時代の日本という国に生きていたって自由とは程遠く、我慢を強いられた毎日を送っている人がいる。その現実を垣間見させてもらって、本当にあれから毎日のように自分には何ができるのだろうかとか、どんな生き方をすべきなんだろうかと色々と考えをめぐらせている。
それで更に私自身が自由に生きさせてもらっていることへの感謝が深まった気がする。知り合う人にもとても恵まれている。今回の日本滞在でも本当に多くの人にお世話になった。どんな形でかはわからないけれど、恩返しができるような生き方をするつもりでいる。
今住んでいる国も、健康でさえあれば、割と自由に暮らせる場所かなと思う。出家として家を出た夫も日本で元気にやっている。夫の親たちや親戚たちとも変わらず交流している。同居人とも仲良く暮らしている。同居人の親や兄弟たちとも交流している。
おじいちゃんたちの時代の人たちにはもしかしたら考えられなかったような暮らし方かもしれない。
自分が選んで、こんな自由な生き方をしているんだと思うけれど、回りの人たちの理解があってこそ可能なんだと思う。
前にもブログに書いたかもしれないけど、私は我慢して生きたおばあちゃんや乳がんで死んだおばちゃんの分まで、精一杯に自分を生きようと思っている。
自分の命を大切にして。余計な添加物や農薬の使われていないおいしいものを感謝していただいて。
ママに言わせれば、パパや私は、「ご自愛系」なんだそうだ。
自分を大切に愛して生きる人たち。
おじいちゃんもそうだったかもな。
ママによれば、このご自愛系の流れを継いでいるのは、弟の長男だそうだ。
ご自愛系はマイペースで自分の世界に浸って生きる。結構、世の中のためにいいようなこともやるんだけれど、結局のところは自己満足であるということらしい。
まぁ、そう言われてしまうと返す言葉はない。特に返す必要も感じない。
地球にはいろんな人が生きている。色々な生き方がある。
真実なんて誰にもわからないし、誰もが目に見える形で証明できる真実はないと思う。
自分にとって確実なことは、今、自分がココニイルコト。
自分を生きていること。
自分と会話していること。ひらめきがあること。
自由に生きさせてくれる家族やこの地球の時間に感謝している。
日本滞在最後にはパパとママと温泉に行った。夕飯の後のカラオケは最高だった。
by akiko-gf
| 2013-06-03 07:52
| way of life

